空のつらなり
6月のいまの時期、
梅雨の合間の晴れ間があれば、
午前11時からわずか30分ほどの時間帯ではあるが、
診察室にある吹き抜けの、
さらに上の天窓から陽光が差す。
クリニックを設計したとき、
診察室から、
空が見えるようにしたかった。
空に向かって開かれた窓は、
普段は小さく切り取られた青や灰色の空を、
首を上に向ければ診察の合間に見せてくれるが、
1年のうち
この時期のこの時間帯だけ、
太陽光を拝ませてくれる。
ちょうど天窓と吹き抜けを通して差し込む陽光のもとにはお気に入りの版画。
敬愛する名嘉睦稔氏のこれは「上げ潮」という作品である。
沖縄の海と空を写し取ったこの絵に福島の太陽が交差すると、
空のつらなりをイマジネーションさせてくれる。
もちろん海もつながっている。
両手をうえに、
のびをしたい気持ちになる。
『島の人は昔から、
「上がりティーダ(朝陽)」と「下がりティーダ(夕陽)」とともに生きてきた。
元気をもらいたいときにはもちろん、「上がりティーダ」を拝むわけだが、
精神的に参ったとき、たとえば若い娘さんが不幸にも死産してしまったときなんかには、
「下がりティーダ」が必要になる。
夕凪の海水に浸かり、禊のように、悲しみを流し、痛んだ身体を癒すわけ』
そんな話を彼から聞いたことがあった。
人は古来から太陽とともに、海とともに生きてきたことは言うまでもない。
朝陽は誕生、夕陽は死を連想させる。
そうして夜は生と死が交錯する神秘の世界だ。
『もーあしび』という海辺での沖縄の秘め事が思い出される。
現代は深夜も明るい闇に閉ざされ、
ラインの返事が来るまで眠ることが許されない、
子どもたちの人間関係が窮屈に思えてならない。
高度情報化社会において、
他者の位置づけも変容し、
身体そのもので感情や素直な気持ちをやり取りすることが難しくなってしまった。
そしてこのことが抑うつや被害感、内向する苦しみに無関係でないことは、
誰にでも直感されよう。
『激しいエロス、性愛は人間のうちにも宿っている。
それは生命がけの行為であるがゆえ、
すさまじく、かけがえのないエネルギーなんだ』
そんなことも彼は言っていたかもしれない。
彼の野生と
琉球の神話に裏付けられた世界観は、
美しい光の世界だけでなく、
世界全体、
魑魅魍魎の跋扈する闇の世界も、
いっしょくたに作品に捉えんとする。
その作風に身を浸せば、
私にも、
現代の閉塞を突き抜けるヒントが生まれるような気がしてくる。
いかに生命力を回復できるか、
いかに苦しみを越えてゆけるか、
いかにして闇をも味方にできるか、
いかに人がその生まれ持ったちからを発揮できるか。
精神科医として日々直面する喫緊の課題に、
もちろん安易な答えはないが、
陽は上り、陽は沈み、
日々繰り返すこの光と闇の世界に、
覚悟を決めて身を投ずれば、
およそ善悪を越えた
生命体の素直な発露、
そしてしばしのやすらぎのときも、
見えてくるものなのかもしれない。