想像するちから~その1
少し前のことになるが
千葉県は幕張メッセにて開催された、
第112回日本精神神経学会に参加した。
多くの演題が同時並行されるなか、
松沢哲郎氏の「想像するちから~チンパンジーが教えてくれた人間の心」と
養老孟司氏の「意識の博物学」と題された特別公演は
群を抜いてすばらしかった。
松沢氏は京都大学にて生後まもないチンパンジーと30年以上、生活をともにし、
そこから得た知見をいかんなく話してくださった。
とくに印象的だったのは、チンパンジーとヒトの赤子の比較。
ヒトの赤子があおむけで寝ることができるのに対し、
チンパンジーの赤子はあおむけの姿勢にされると、
左足と右手、あるいは右足と左手が、宙に挙上してしまうのだ。反射的に。
これは何を意味するのか。
チンパンジーは生後数か月、母親にしがみついて生きるしかない。
ヒトはあおむけで寝ることにより、
母と、見つめあい、微笑みあい、声のやりとりをすることができる。
この原初の感覚が、
ヒトが人として生きてゆくスタートになり、
チンパンジーとヒトを分かつ決定的な違いになるのだという。
いわれてみれば日々の診察においても、日常生活においても、
より鋭敏に知覚するのは、言語としての意味より先に、
トーンとしての「声」であり、
その方の雰囲気としての「まなざし」であるのかもしれない。
ジャックラカンは「対象a」という概念を示し、
人間が人間であるがゆえの根源的能力~幻想の成立に、
この「声」と「まなざし」をあげているが(他には乳房と糞便)、
これらは他者と自己が渾然一体となった赤子時代にその端を発している。
そうして母なる原初の他者と「声」と「まなざし」を交わすことにおいて、
人ならではの安心感を共通言語のように醸成し、
ヒトという種族は基本的な信頼感に支えられることによって、
やがては言語の世界へ参入し、
コミュニケーション能力を発展させてきたのだろうと。
臨床場面に置き換えれば、
人は反対に不安な状況下に置かれると、他者からの注察感、声の幻覚を生じやすい。
見られる恐怖、他者の脅威にさらされる。
よってすべての精神科治療の根幹に、その方が身近な他者との関係において、
まずは安心できる環境を取り戻す必要がある。
私が臨床のなかでもっとも大切にするもの、安心感。
この基本中の基本が思い出される。
理屈ではなく、声とまなざしに守られた、安心感である。
それがあってはじめて人は、
自由に、のびのびと、
前へ進むことができる。
長くなりました。
次回は松沢氏のもうひとつの実験について。