生きづらさ、についての私論(第一回 コロナ渦という混沌のなかで)

 この国いや全世界が、コロナという病に追われ、もうすぐ2年になる。長い。あまりにも長すぎる。昨年末ようやく第五波が落ち着いてきたのも束の間、今年に入り、新種のオミクロン株とやらが猛威をふるい、正直もううんざりというのが本音だろう。

 この短くない2年の間に、コロナ渦という混沌のなかで、多くの患者さんの直面する生きづらさに、ずいぶんと触れた。なかでも一番目を引いたのは、人様あるいは家族に自分自身がコロナウィルスを、知らずに感染させてしまうのではないか、という恐怖である。そしてもし感染者にでもなろうものなら、こうした発生者の少ない地方都市では、あることないこと噂が飛び交い、晒しものになる、という恐怖でもある。

 はじめの恐怖を抱くものは、極端に外出を避け、手洗いや消毒を徹底し、他者のために努力することができる、語弊を避けていうならば、善良な人々である。政府の方針に従い、あるいは自らの基準に照らし、他者配慮することができる、自らに厳しい人たちである。

 ただこうした心性の持ち主は、もともと協調性や同調性にすぐれるがゆえに、コロナ渦では抑うつを示しやすいように思われる。実際に多くの方々が、友人や家族との親密な関係を物理的に阻まれ、手洗い過剰などの強迫症状や、自分はコロナなのではないかという心気症状を示し、あるいは家族に感染させたに違いないという迫害妄想に囚われ、クリニックを訪れた。人との接触を自ら断たざるえないがゆえに、症状は悪循環を示し、孤立せざるをえない。

 さらにはふたつめの晒しものの恐怖が、追い打ちをかける。もともと古くは、メランコリー親和型の病前性格に近い、善良、従順かつ他者配慮的な彼らは、本格的な抑うつに陥り、文字通り身動きできなくなってしまう。この2年、女性の自殺者が増加しているという事実は、こうしたコロナ渦における生きづらさの精神病理と、無関係ではないだろう。 その背景には、感染者=悪という、暗黙の了解、元来農耕民族であるこの国が誇る協調性の背後に潜む、差別の構造が横たわっているのはいうまでもない。画一的な報道や、ネット社会 におけるバッシングの恐怖もこの差別に加担している。

 そしていまやオミクロン株の登場である。これまでより一層感染力がつよいがゆえ、まさに世界中で猛威を振るっている。しかも病原性が弱いがため、無症候の感染者も後を絶たない。知らずに広まってしまうのである。しかしながら、まさにこのことが悪循環の抜け道となろう。これまでは感染者=悪という暗黙の了解が成立してしまっていて、他者排除の感情に拍車をかけたが、こうなるともう市中感染を防ぎようがないのではないか。出歩かないわけにはいかないのだから。もちろんできる限りのことはすべきで、医療崩壊を防がなければならない。ただ万が一感染したとしても、それによる吊し上げは防げるのではないか。ようやく感染者を罪のない一病人として、本来のあるべき姿、つまりは差別なく受け止める社会の受け皿、安心してコロナに罹患することができる土壌がつくられるのではないか。

 少なくとも一街中の精神科医にとって、コロナ渦での生きづらさから生じる多くの症状を主訴とする患者さんたちは、コロナそれ自体が怖いのではない。コロナに感染することによって生じる他者からの差別、非難が怖くて、人によってはコロナより重篤な精神症状を示しているのだ。オミクロン株が増え、市中感染が増え続けることはもちろん表面的にはよろこばしいことではないが、感染者を悪とする過ちを排し、なんとか重症者に特化した治療を維持したうえで、差別の構造を打破する抜け道にならないかと期待したい。

 医療崩壊を防ぐぎりぎりの重症者の増加にとどめるために、みながクラスターを防ぐための努力はもちろん続ける必要があるだろう。それでも偶発的にでもオミクロン株には罹患する可能性があるわけだから、安心して罹患と治療が行われる社会を確立し、感染を過度には恐れず、少しでも患者さんの生きづらさが緩和される日が訪れる出口を待ちたい。

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