11月4日

11月4日は、久しぶりに一人、車ででかけた。
東京から、いわき、そして仙台までの海岸線をつなぐ、
国道6号線が、
震災による原子力発電所事故から3年半の期間を経て、
今年9月に開通された。
とにかく北へ、車を走らせる。
 
2014_1104_094301-DSC_0960
    
       
木戸川。
避難指示の続く楢葉地区にある美しい河川だ。
鮭は、変わらず、遡上している。
ほっとする。
   
2014_1104_104326-DSC_0966
    
国道6号線は開通したが、
常磐線は竜田駅まで。
その北に位置する富岡の駅はまだまだ痛々しい。
海岸までが、除染の黒袋で埋まっていたが、
逆にいえば、除染は進み、
町内のガソリンスタンドも営業を再開している。
  
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
  

  
そしてこれまで通行禁止であった、
帰還困難区域へと入る。
二輪車は依然通行禁止で、国道をそれる脇道はバリケードで封鎖され、
警官が不審者を警備している。
   
かつてのどかな田園だったはずの土地は、
枯れ始めたセイタカアワダチソウで埋め尽くされていた。   
  
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
   

そしていまも多くの作業員の方々が収束へ向けて、
困難な仕事に従事されている1Fの至近を通る。
線量計は通り過ぎるわずか1㌔圏内では高い数値を示した。
     
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
    
浪江を過ぎ、南相馬市小高地区へ。
高校時代の級友が、
ここからいわきまで通っていた。
このあたりは津波の影響が色濃く残り、
セイタカアワダチソウさえ生えないのか、
海まで広く荒れた土地が、
手つかずにそのまま残っていた。
   
2014_1104_154419-DSC_0971
   

相馬から内陸へ入り、霊山方面へ。
ようやく刈り取られた田んぼの風景に安堵する。
車を止め、紅葉の霊山を、ゆっくり歩いた。
中高年の登山者が笑顔を交わし合い、
青空は少しも変わりはなかった。
高台から見下ろせば
山と山のあいだの土地には、
汚染土の黒袋が集積されている。
  
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
  
帰りは飯舘村から南相馬へ。
やはり避難指示の続いている飯館村は、
本当に美しい村なのだが、
黒い袋が荒れた田園風景に痛々しかった。
  
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
   
故郷を奪われた多くの方々の、
怒りと悲しみが伝わってくる。
  
今年の夏から秋にかけて、
川内村のモリアオガエル、
竜田駅の開通式、
震災前の9.3%の入場者数にとどまった大好きな四倉海岸、
平の七夕、
小名浜の花火、
夏井川の灯篭流し、
川俣のフォルクローレ、
そして今日の木戸川、霊山、飯舘村。
いずれも一人で出かけ、
「福島」を歩いた。
変わらないもの、
変わりつつあるもの、
変わりゆくもの、
変わり果てたもの、
変わりようがないもの。
「復興」という言葉さえ、
ささくれなしには
受け取れないのもいまだに事実だ。
できることはもちろん、限られている。
        
11月4日は中学時代の、
クラスメートを亡くした命日でもあった。
2年前はあまりの多忙さにかまけて、
この日をすっかり忘れてしまった。
それはそれでよいのかどうか。
悲しみの記憶は人を苦しめるが、
人だけが悲しみを想い、
共有することができる生き物なのだ。
    
2014_1104_101332-DSC_0964
    

そして豚丼。
かねてから多くの方々に噂を聞いていたが、これがそうか。
念願が叶った。
もとは被災地と平にあった老舗の鰻屋さんが、
震災後、見事に転身を遂げたという。
「並」「中」「大」とあり、「中」を頼むが、
これがはちきれんばかりのボリュームだった。
秘伝のタレと焼き具合が、肉にもマッチ。
これでもか、と盛られたご飯もどんどんいけた。
この地で働く多くの方の活力源だ。
ありがたい。
  
帰りは夜の6号線を南へ。
久ノ浜で渋滞するのも、聞いていた通りだ。
多くの人が、1日を終え、帰路につく。
暗がりに窓を開ければ、
波立海岸の潮の香りは、
変わりなく
そこにあった。

  

Comments are closed.