オープンダイアローグとは何か

さる2月5日、精神科医として出身大学の先輩であり、
精神分析家としては多数の著作を発表していらっしゃる、
現筑波大学医学医療系社会精神保健学教授の斎藤環(さいとうたまき)氏がいわきに来られ、
「若者の不安と軽症のうつ病」というテーマで、特別講演をしてくださった。
  
多様化するコミュニケーション能力(コミュ力というらしい)重視の社会において、
現代の若者の生きづらさ、他者への承認欲求とその屈折、
孤立する恐怖などが具体的に語られ、
社会への不適応という形で軽症の抑うつが生じるという点は、
人が、社会という他者とどう出会い、
生き抜くちからを身に着けてゆけるかという、
思春期の問いにもつながると思われた。
  
講演のあと、
氏の近著「オープンダイアローグとは何か」
についても語る機会を得ることができた。
  
「オープンダイアローグ」というフィンランド発の治療実践は、
著書によれば、重度の精神病を患う患者さんや心的外傷に苦しむ患者さんに対しても、
投薬ではなく、開かれた対話によるアプローチ(オープンダイアローグ)を用いる画期的な試みである。
治療者あるいは治療チームが(例えば薬を飲みなさいなどの)指示的なモノローグで接するのではなく、
お互いの感情表現を含めた、相互の対話が芽生える、生きた場によって展開される治療である。
  
斎藤環氏はこの最近、この治療チームを実践されて、
臨床にも取り組んでおられるとのことだった。
以前お会いしたときにも精神科治療における、
「人薬」の重要性を話しておられたことを思い出す。
科学物質である薬物だけに頼るのではなく、人と人との関係性が
精神疾患の治療にはもっとも大切とする治療姿勢に、
一貫した潔さを感じたのは私だけではないだろう。
  
それぞれが「限界のある身体」をもった生身の人間であるということを踏まえ、
著書にはこうも記されてある。
ミーティングの参加者である私たちの体験は、対話主義的な同調によって与えられる。
それは「存在の一回性の出来事」において肉体を与えられた者どうしに起こる特別な瞬間である。
    
このあたりは実感として、共感できる。
個人精神療法の場でも、
こうして他者である患者さんの感情体験に、深く共感、同調できる瞬間があり、
それはしばしば治癒への重要な転機となる。
    
やや難解なシステム論で有名なマトゥラーナが
こんな言葉を残していることにも驚かされた。
「体験可能な唯一の孤独の超克は、他者との合意の上になりたつ現実、
すなわち愛を通じて成し遂げられます」
さらに、愛の感覚とは、意味を共有する世界に参加したことで生じる、身体レベルの反応のことである。
と続き、
子どもの神経生物学的な発達における、感情の共有体験や情緒的な対話が、
神経システムにおける自己統御能力の形成や言語獲得に向かうプロセスにつながっているとし、
学問的な根拠としていた。
  
なるほど、とうなずかされる。
児童思春期から成人にいたる過程において、
いかに身体性を欠いたコミュニケーションばかりが、はびこっていることだろう。
学校でも、職場でも、あるいは家庭でも、人間関係それ自体が、
モノローグ的な閉鎖状況から逃れられずにいるのかもしれない。
(あるいはネット社会に代表される、身体性から乖離したコミュニケーション様式へのとらわれ)
モノローグからダイアローグに開かれる場、いいかえれば感情体験が共有され、
支え合える場がどれだけ経験、実感できるかが、
人の安心、成長には欠かせないものなのかもしれない。
そんなことを連想しながら、著書を拝読し、氏(先輩)と話ができた時間をありがたく思った。

  

  

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